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ミラノ 2010年 秋

 僕の右斜め、ちょうど45度ぐらい、距離にして1メートルほど。そこに彼女は立っていた。
 いつも利用する地下鉄緑線M2。一応ミラノでは2番目にできた地下鉄のラインということだけど、今では一番ぼろぼろの車両が走っている。最初にできた赤線M1のほうはもうほとんどが新しい車両に変わってしまい、一番新しいラインの黄色線M3はまだ比較的どの車用も新しい。M2の車両は車内の床に何十年も前に残されたミラノの隅々の人々の生活をべったりと含んだ油が沁み込んでいる車両だ。
 彼女の存在には、気がつくと気がついていたという感じだった。まるで煙のように、見ているわけではないけど、その匂いに気がつくといつの間にか彼女のいる世界の中にいた、という感じだった。
 気がつくと僕は彼女を見上げていた。僕は車両の椅子に座っていていつものように耳にヘッドフォンを当て、自分の世界に没頭しているところだった。でも気がつくと僕の視線は彼女の上に注がれていた。まるで細胞が反応して、そこに何かを感じ取るみたいに。
 おそらくそれはただ純粋に「美しいもの」と呼んでいいのだろう。
 基本的に人間が「わかる」と判断できるものを美しいと感じることはない。わからないからこそ美しいと思うのだ。
 彼女を見上げたときに僕はこう思った。まあ、そうゆうのは美しい映画のようなもので、目が覚めてしまえばそれは消えてしまうものなのだと。
 僕はさらにヘッドフォンのボリュームをあげた。人間の耳の形にはパターンがあるそうで、ちいさな耳にはめるヘッドフォンがちゃんと合う人とそうでない人とがいる。僕はそうではないタイプで、市販に売られているコンパクトで鞄にも収まり易い小さなヘッドフォンを耳にはめるとすぐに落ちてしまう。耳の形が一般的ではないのかもしれない。だから僕は頭からすっぽりとかぶって耳あてのような大きなスピーカーがついたヘッドフォンしか使えない。地下鉄の押し迫られた空気から少しでも逃げるために音楽を聞いているのにヘッドフォンがポロポロ落ちるということはまるで拷問にも等しいと僕は思う。
 自慢じゃないけど僕のヘッドフォンはドイツ製で、プロのレコーディングにも使用されていたというものをそのまま市販したもので、まあ、なんというか、それなりの世界観をきちんと提供してくれる。
 だからというわけではないけれど、僕は彼女のことはあまり意識しないようにした。確かにここはイタリアで、確かに、おそらく僕の記憶が正しければ、ここはミラノと呼ばれる街らしい。
 日本食が大好きな僕にとっても、確かにイタリアンはおいしい。だって、それは実際に食べてみるとおいしいから。理屈もクソもない。そう、同じように彼女はとんでもなく、まるで芸術的に美しかった。眉毛を通り抜け、そして耳に到着してようやく世界のバランスを終着したような黄金比的なブロンドの髪、未知の輝きの求めるような大きく開かれた瞳、そして性欲を集約したような唇。全く、意味がわからない。
 僕は現実の空気を吸い込むように彼女から視線を逸らした。
 片足のない老人が古ぼけた紙コップを僕に向けて何かを言っている。松葉杖をついて、そして抜け落ちた歯をむき出しながら。悪いけど僕の殻はなかなか破けない。それは僕が考えるべき問題ではない、と思う。
 やがて電車は次の駅に着き扉が開いた。ある種の均衡を破る音、そして幕が開く。乗っていた乗客が降りてしまうと席に空白ができて、彼女が僕の目の前の席に座った。彫刻的な完結した美しさではなく、生きるということの純粋な美しさというものをポンとそこに置いたように。ぴったりとした黒いレザーのジャケット、生命力という泉から湧き出たようにそこから伸びる足。
 3人の薄汚れた男たちが車両に入ってきた。1人目のイタリア人のようなのは手にはバイオリン、薄汚れた中東出身ぽいアコーディオン、そして真っ黒で見るからにアフリカ系の小さな太鼓を持ったコンガ。興味深いトリオに僕は誰も気がつかれないようにMP3の一時停止のボタンを押した。でもヘッドフォンは外さなかった。彼らはだいたい演奏が終わったあとにまた紙コップを持って乗客を回ってくるからヘッドフォンをしていれば、そんなこと見ないふりをしてやりすごすこともできる。というよりもこのパターンで僕はだいたいやりすごしている。そんなもの聞いていないよって。
 アコーディオンが油の貯まった車両の床を足で3回叩いて音楽が始まった途端に目の前の彼女が笑った。僕の知らない音楽だったし、彼女がなぜ笑ったのか僕にもわからなかった。もしかしたら彼女にとっては思い出の曲なのかもしれなかった。
 笑った彼女は美しくもあり、そしてただ僕の前にいる現実になった。僕はペッドフォンを外し、ただ目の前にあったその光景というものに見とれていた。

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コメント

  1. なお より:

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    美しいものを見るって
    心の癒しですよね。
    自分の好きな風景に出会えたら
    自分の好きな絵画に出会えたら
    自分の好きな人に出会えたら
    立ち止まってただ、見つめていたい。
    ただ、見つめていたいです。

  2. tatsu より:

    SECRET: 0
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    なお さん
    どうもコメントありがとうございます。
    こうゆうものって、おそらく日常で頻繁に起きる小さな世界の奇跡のようなものなのかもしれませんね。
    それに気か付けるように、いつも心がけていたいものです。

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