Oops! It appears that you have disabled your Javascript. In order for you to see this page as it is meant to appear, we ask that you please re-enable your Javascript!

ミラノに漂う土曜の夜の暴力の匂い

yH5BAEAAAAALAAAAAABAAEAAAIBRAA7 - ミラノに漂う土曜の夜の暴力の匂い
 朝起きて、地下鉄に乗り、一日を終えて家に帰ってくる。そうゆう日々がしばらく続いている。それはおそらくは僕が求めたものなのかもしれないけれど、僕に与えられた役割をきちんと演じていれば、いつの間にか日曜日がやってくる。そうゆう暮らし。


昨日は仕事の後、友人の家に寄った。また別の仕事に関係する打ち合わせのようなものがあったからだ。終電の時間が気になったので、そこも早めに切り上げた。一度バスに乗ってから、地下鉄に乗り換えなくてはいけなかったからできれば早く帰りたかった。帰り際に初めて会った日本人の男の子と一緒になった。まだミラノに来て4週間だと言う。英語を喋りながら友人に電話をかけ、これからパーティに行くのだと僕に言った。
 ランブラーテまで行くバスの中で僕と彼はいろいろな話をしたように思う。でも雨の降る土曜の夜のバスの中は、あまり熱心な話をするのには向いていなかった。そしてまたデザインの話をした。
 バスがランブラーテに着くと、僕は降りた。彼はそこからロレートまで行くと言う。ロレート広場、ベニート・ムッソリーニが逆さ吊りにされた場所。ファシズムの墓場。
 僕はランブラーテ駅を利用したことはあったけど、どこに地下鉄の入口があるのか知らなかった。それにミラノの地下鉄は夜遅くなると閉まってしまうゲートがほとんどで、一つしか開いているゲートがない場合が多い。僕はバスを降りるとすぐに近くの人に地下鉄の入口を聞いた。
「上、上!」とおばさんが答えた。太った、中年のおばさん。
 イタリアに来て僕が何度も思うのは、知らなくて間違った情報を教えてくれるぐらいなら、正直にそう言って欲しいということだ。さも知っているように自信ありげに答えるから、それを信じて探して見るけど、探しているものが実際にない場合もある。
 僕は駅の構内を上がり、ぐるっと一周してきてまた駅の同じ場所にたどり着いた。そして別の人に聞いた。今度は「下だ」と言われた。良く見ると地下鉄の「M」の文字が赤く光っていた。確かに、ここが入口なのだ。
 僕がもたもたしていたせいで電車を乗り過ごしてしまい、プラットフォームに着くと次の電車まで14分と電光掲示版に書いてあった。14分…。しかも僕の家の方角に行く電車ではなくて、一度乗り換えなくてはいけない。ガサットと書いてある。僕の家に行くにはコローニョの電車に乗らなくてはいけない。
 日々回り続ける日常、プラットフォームのらくがき、排水溝から流れる淀んだ雨水。体格の良い3人組のアフリカ人が僕のことをじっと見ていた。プラットフォームの構内には大きなポスターが貼ってあった。サーフボードを持った男が美しい海をバックににっこり笑っていた。どことなくニコラスゲイジみたいな、遠慮がちな微笑み。サウス・アフリカと書かれた大きな文字。男は頭にサングラスを載せ、楽しそうに微笑んでいたけど鼻からは落書きされた青い鼻水を流していた。
 電車の中は乗客が引きずってきた雨のためにところどころ濡れていた。土曜の夜の雨、窓の外に移るミラノの薄暗いオレンジ色の街灯はいつまで経ってもあまり親密な気がしない。どこか夢の中にいるようで、とても大きな音を立てて扉が閉まる。黒く重たそうなコートを着たフィリピンのおばさん、酔っぱらいのイタリア人の若者たち、IEDデザイン学校のポスター、浅黒いモロッコのおじさんは落ち着きのなさそうに足をカタカタと震わせていた。
 僕はゴッビアという駅で乗り換えるために電車を降りた。一緒に降りた人々は改札に向かい、4ラインあるプラットフォームには僕しかいないようだった。雨の降る春を待ちわびたプラットフォーム。遠くには雨を縫う車の音が響き、どこからかパチパチという電気が擦れるような音がした。僕は次の電車時間を調べようと時刻表を見に行った。よく見ると、自動販売機の陰に男が一人立っていた。皮ジャンに汚れたジーンズ、じっとしたまま外を見ていたので顔は見えなかった。次の電車までは約10分。
 僕は静まり返ったプラットフォームの冷たい石のベンチに座ってタバコを吸うことにした。タバコを吸うためには紙とフィルター、そしてタバコの葉を巻いて自分でタバコを作らなくていけない。人間というものは欲望のためならどんなものにでも慣れてしまえる。紙にタバコの葉を載せ、フィルターを滑り込ませ、そして紙をくるりと巻いてノリの部分をぺろりと舐める。僕はタバコを吸いながら電車を待った。
 広々としたプラットフォームでは現実と夢が揺れ動いているように思えた。遠い記憶と何かが繋がりそうで、たどり着く場所を求めるように長細い触手がいくつも伸びて煙となってどこかへ飛んでいった。僕は来週の予定を考え、雑誌の締め切りのことを考え、書くべき言葉を探した。
 気がつくと男が僕の前を歩いていた。何かを喋っていたけど、よく聞き取れなかった。20代後半、短い髪の薄汚い男は良く見ると顔じゅうに取れたてのイチゴのような傷があった。ほとんどは顔の左側だったけど、どう見ても誰かと殴り合った後のようだった。
「おい、電車は来るか?」と男は言った。僕と男しかいないプラットフォーム。しばらく電車は着そうにもない。
「たぶん、あと5分ぐらいで来るんじゃないかな。コローニョ行きだよ」と僕は答えた。
「タバコくれないか?」と男は言った。
「いいけど、自分で巻かなくちゃいけないよ」と僕は答えた。
 男は僕の隣に腰を下ろし、じっと僕のことを見つめた。僕は鞄からタバコセットを取りだして、まず紙を手渡し、それからタバコの葉を手渡した。フィルターをあげようと思ったが「いや、いらない」と男は言った。巻きタバコの場合、フィルターを使わないと、紙が濡れてとても吸いにくい。「本当にいらないのか?」と僕はフィルターを差しだして言った。男は首を振った。
「オレの親父がさ、このタバコを吸っていたよ。もう7年も前だ」と男は言った。「オレもタバコを吸うのは4年ぶりだ」
「まあ、あんまり簡単じゃないよね」と僕は言った。
「何が?」
「人生さ」と僕は答えた。
 男は何も答えず、タバコを一口吸うと「ベーネ」と言った。
「コローニョ行きの電車が到着します」とアナウンスがあった後、電車がプラットフォームに入ってきた。最初に男が立ちあがって、電車に向かった。僕と男は向かい合うようにして座席に座った。隣ではニット帽を被った十代のイタリア人のグループがいて「ふざけんじゃねえよ、このクソやろう」と大声で話していた。少し離れた座席には彼らのグループの一人と思われる青年が座席でうずくまっていたが、足元にはトマトソースをぶちまけたような液体が広がっていた。「ネグローニを6杯も飲むからだ、くせえんだよ」とグループの一人が言った。
 顔に傷のある男は僕のあげたタバコを車内でも吸っていた。それをチラチラと乗客が見ていたけど、彼はそんなこと特に気にしていないようだった。しばらくしてタバコを床に落として足でもみ消すと、両手で顔を覆うようにして動かなくなった。
 僕はその光景を写真に撮りたい衝動に駆られた。たまたま僕の鞄の中には一眼レフが入っていた。普段は仕事の用事でもないかぎり、重い一眼レフを持って出ることはない。たいていはコンパクトカメラのほうで済ませてしまう。でもなんだか写真を取りたいような気がして、そしてもしかしたら打ち合わせで使うかもしれないと思っていたので鞄の中に入っていた。それはその男の、そして僕の人生の鏡を映す一枚の写真として、興味深い写真になるだろうと思った。
 鞄に一眼レフが入っていると、どことなく落ち着かない気分になる。何かが起これば、そして何かを表す世界の一部分を見かけると、いつでもカメラを抜き出して写真を撮りたいと思う感覚を持ち運んでいるような気分になる。ミラノの日常、春を待ちわびる北イタリアの空気、街灯に反射する人々の暮らし。でも男が傷を隠すように両手で顔を覆うまで、まだ昨日はシャッターを切りたいと思う瞬間は訪れていなかった。
 でも結局昨日は一枚も写真を撮らないまま家に戻ってきた。僕はその男の写真を撮ることができなかった。だからかもしれないけど、この文章を書くことにした。
 男は電車を降りるときに振り向いて僕に向かって少しだけ笑った。僕は手を挙げて、それに答えた。

SNSでもご購読できます。

コメントを残す